待降節の準備
「待降節、それは私たちの信仰、希望を強めるときです。:それは脆く、依存的で必要なものにも事欠く、一つの被造物の姿を選び取られたイエスを受けとめるための準備の時です。又イエスは、貧しさの中で、最も脆く弱い幼子の姿で、私たちと共に歩み始める事を選ばれたのです。御子イエスにおいて、私たちの世界を刷新し、私たちの世界を再活性化なさる神の未来へ開かれるよう心を準備しましょう。今日、私たちに与えられる世界の地平に、私たちの目を上げましょう。喜びをもって前に、進みましょう。それは彼が、一人の人間として私たちに“安住の地から出る”のを妨げている全ての事から解放するために来られるからですイエスにおいて、神ご自身が自己から出るダイナミズムへと開かれ、この世界に入られ、生きるために留まられました。これが私たちと共におられる神であり、彼は共に歩み進まれるのをお止めになりません。又それは聖霊の賜物であり、その力であり、私たちの歩みが留まるのをお許しになりません。(Anunciad37)それはルア:“わたしたちの内にある神よりの息吹”で、わたしたちを新しい地平を探し求めるように突き動かすものです。」(礼拝会総長の待降節の回状より)
先日の研修会でいただいたアドラーの言葉に以下の様なものがありました。
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたに関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」
「できない自分を責めている限り、永遠に幸せにはなれないだろう。今の自分を認める勇気を持つ者だけが、本当に強い人間になれるのだ。」
さいごに聖マリア・ミカエラのことば
「神が私にこの事業をさせておられることを人々は知らないのです。私一人では、何もできないことを知らないのです。何故なら、私自身、自分のすることがよくわからず、どんな結果になる事かと思います。その結果を見て、誰よりも驚くのは、この私です。」