わたしたちの礼拝
春のお花から夏のお花を準備していると、鉢の中に張り巡らされていたたくましい根に目を見張る。かわいい花々が儚さを持ったまま堂々と咲くことを支えるために、見えない場所でこんなにも力強く黙々と「いのち」を運んでいた根。なんだか「礼拝のようだな」と感じた。
私たちは毎日何度かご聖体の前に座る。たとえば眠る前に聖堂に行ってご聖体のイエスとの時間を過ごす。一日のいろいろな感情、思考、そして過去や未来を差し出して、「いま」を聴く。「礼拝する時-神はいつもご自分を低められます・・・わたしたちに達するために極度のデリケートさを持ってわたしたちに近づかれます。そして愛のデリケートさで、わたしたちの小ささに触れられます。」(「礼拝の使徒的意味」Sr.ヌリアA.C.I 礼拝会訳)静かに聴き、呼吸を数えているうちに「感謝」という「いのち」にしばしば満たされる。又朝、顕示されているご聖体の前に座る時は、み言葉によってイエスの行いやみこころを観る。そしてイエスのまなざしで見ることによって「小ささゆえに彼に捉えられている自分」に気づき嬉しくなる。
今ちょうど百日草やマリーゴールド、インパチェンス等などの種を蒔いたところで、その成長を見ているのが嬉しくて仕方がない。私たちは種を蒔き、水をやり、温度と光を調整する。時にはなめくじやダンゴムシと闘いながら。でもいのちを成長させてくれるのは見えない主だ。
«礼拝の生活と固有の使徒職の生活を1つに合わせなさい»(礼拝会会憲)使徒的使命は礼拝から開花することは明らかで、又同時に使徒的活動の中で、私たちが礼拝で生き、受け取っているものを表現している。嘘をつくことが常態化してしまった若い女性と生活を共にしていたことがあった。本人も私も嘘は嫌だったが、なぜそうなるのかわからなかった。ただ礼拝の中で私は「その方のお話を伺おう」と感じた。毎日ただ1時間2時間その方の語ることを聴いた。一緒に大笑いしたり、時には涙した。気が付くと嘘がほとんどなくなりお互いの間に信頼が生まれていた。やはり「礼拝に似ている」と思った。ただ信じて見つめることで、種が芽を出し根が伸びていた。「礼拝とはなんてダイナミックなんだろう!」生活の中でそう思う。