ある日の静修
「個人的祈りは私たちの生活の本質であり、毎日少なくとも1時間はこれに充てる。信仰の共同体であることを意識し、祈りやみことばのわかちあい、また福音の光と出来事に照らして、私たちの選択を共に識別する。神との出会いと回心を深める大切な時として、毎月一日の静修と、年の黙想を行う。これは共同体と相談して計画する。」(指針書37)
今日は曇り空、それでけで気持ちが晴れません。なんとなく体調もすぐれず、どんよりした中で静修を始めました。
テーマは「ルカ7章11~17」いわゆる「ナインのやもめ」の個所です。イエス、弟子たち、群衆、母親、息子…登場人物の気持ちに、敏感に共鳴していく自分がいます。午前中は、深い呼吸を意識して、私自身の「いま・ここ」での気持ち、体の感覚をありのまま差し出していきます。
昼食をとって、お庭の紫陽花を愛でてから、少し作業をしました。
それから午後の祈り。最近友人とわかちあっていた「アドラー心理学」、使徒職の場で学んだ「マインドフルネス」、黙想会で体験した「ビパッサナー瞑想」それからTVで観た「怒りが生じた現場に居合わせたハエになってみる、アンガーマネジメント」などなどが、しばらく頭の中で回っていました。それらを流しながら、ゆっくり心を呼吸に戻していきます。
心に響いてきたのは「もう泣かなくてもよい」「起きなさい」という力強いイエスの言葉でした。「怒り」を感じた時「自分がハエになってその状況を見てみる」と確かに客観的になって「一呼吸」おけるけど、「ハエにわかってもらえても…」という気持ちがぬぐえませんでした。でも今日は、客観的になった先に、俯瞰しておられるイエスの存在を感じて、深い安心感に包まれました。
大きな手の中で、「その先にいるイエスに身を委ねる勇気」を祈りました。