防衛機制と改憲と女性の痛み
小さな子どもが虐待死した新聞記事を見て、一時保護施設で出会ったAさんが「この子は幸せだったかもしれない」とつぶやいたのが私には衝撃だった。彼女は30歳を過ぎていたが母親からの暴力で足を骨折し、松葉杖をついている方だった。彼女が話してくれたそれまでの人生はある種の贅沢さとそれと裏腹の暴力と暴言の連続だった。
先日「カトリック正義と平和協議会全国会議」の講演会で精神科医の香山リカさんがフロイトの防衛機制から社会の歪みを見ていく視点を話してくださった。「防衛機制」とは「精神分析の中心概念の一つ。不安によって人格の統合性を維持することが困難な事態に直面したとき、自我はその崩壊を防ぐためにさまざまな努力を無意識のうちに行うが、このような自我の働き。自我を脅かすものとしては、一方にはその個人を取り巻く外界の厳しい現実社会があり、他方には自分の内部のエスes(イドidともいう)や超自我super-egoがある。」(「日本大百科全書」より抜粋)防衛機制のひとつに「否認(denial)」がある。これは「受け止めると心が崩壊するのでなかったことにする」というもの。今、「原発事故」に関しても社会的にdenailが起きている。ここでも否認のメカニズムが働いていると。あまりにも事が重大過ぎたので、東電も政府も「無かった」ことにして再稼働が進められている。又「同一視」(困っているときに自分をより大きい価値におもねる)という防衛機制がある。「改憲」の動きに関しても同じような心のメカニズムが働いているのではないか。消費社会を回転させるために、多くのメディアは「消費者の自己愛」にたきつける。しかし2次元の世界が煽った「自己愛」は幻想であって、現実ではない。だから多くの人が心の中で肥大化した自己愛をもてあましている。これはフランシスコ教皇が「使徒的勧告“アモリス・レティティア”で述べていた「行き過ぎた個人主義」という言葉をほうふつとさせる。多くの人は「不本意な状況を誰かに説明してほしい」と思っている。そして現政権は「「うまくいかない自己愛をうまくすり替えて説明する。」才能があるのかもしれないと。写真やグラフによって感情に訴えて、「私がうまくいかないのは自分のせいではなく、隣国ややメディアのせい」と思わせる。これも投影(projection)という防衛機制に似ているらしい。「憲法が変われば自分の生活が良くなるのではないか」多くの人はそうおもわされてしまうのかもしれない。しかし本当のこたえは「自己愛が間違っている」「身分不相応の夢を見ている」という事だけ。しかし人間にとって、事実を受け止めることはつらいことのひとつ。事実から目を背けるためのメカニズムが「防衛機制」。どこもかしこも防衛機制が働いてしまっているようにも見える。本来は自分の心を守るためのものが、自分と社会をゆがめてしまっている。このような不安定な時代に、「神の存在を信じることができる」ということは強い。神様の普遍的真理をどうどうと語ることができたら。
前述のAさんは街を歩いていたら恐らく何人かの人は振り向くほどの美人だった。小さいころから、母親から虐待を受けるのは決まって容姿の事だったという。母親が不安定になると「そんな鼻では生きていけない。TVタレントの○○さんよりも劣っている。そんな顔では生きている価値が無い」そのようなことを言われベランダから突き落とされたり、骨折するほど殴られたりしたという。彼女はその過酷な現実を薄めるために、空想の世界に逃げ込んだり、やみくもに走ったりしていた。防衛機制である。そしていつの日か知らないうちに福岡から長野に行っていたり、売春をするようになっていたという。
超高齢化社会で社会保障費が増大する中、経済を維持向上させていかなければならないのはわかるが、昨今の為政者の税金の不正や無駄遣い報道を耳にすると消費を拡大するよりもやらなければならない事が沢山あるのではないかと考えてしまう。こんなにも女性や子どもの柔らかい心が、家庭や身近な場所で無残に傷つけられている。
会議の私たちのグループでは「何をどのように変えるのか、変えないのか、具体的に見ていこう」「信仰の原点に返ってフランシスコ教皇の元旦平和メッセージを理解し伝えていこう」「具体的に痛みが発生している場所へ出向いていこう。」など今後の行動の指針が示された。これは私たちが痛みを抱えている女性に対峙する姿勢とも被る。
そして私たちはもうひとつ力強い道具をもっている。「いのり」である。もしかしたらもう古いのかもしれないが、「いのり」は霊や魂のレベルで行われることである、先の防衛機制が働く心理よりもう少し深い場所であると私は習い信じている。確実に、毎日数時間、女性の痛みや世界に、善霊が働くように祈っている。私たちは、「いのり」と「おこない」によってこれからも歩んでいく。