”ぷろじぇくとHana” と 「礼拝会の教育学」
コロナ禍の中で咲いた “Hana”
- 女性支援の現状と“ぷろじぇくとHana”
「メディアでは、コロナ禍でDVが増加していると報道されていますけど、微増ですかね。もともと多いですから。それよりも助産制度の利用について相談に来られる方が軒並み増えています。」礼拝会が一緒に仕事をしているある区役所の女性相談員。「希死念慮を訴える十代の女の子たちの依頼が増えています。」宿泊所で奉仕する礼拝会の使徒職の協働者。「コロナ禍で見えてくること……」と言っても、礼拝会の各使徒職現場では、通常とは変わらない慌ただしい毎日が続いている。それでも外出自粛が始まったころ私が強く感じたことがあった。生活困難や嫌がらせなどの相談が激増したこと。元気に私たちのもとを旅立ったシェルター退所者、ご近所などいろいろな意味でよく知っている方々、又はその周りの方からの「生活ができなくなった……」「鬱が再発した……」「嫌がらせがあって困っている……」etc の相談の数々。そして私自身も自粛のため繁華街へのアウトリーチにいかれなくなった。「出会い」が戸惑われる中、長年温めてきたSNS相談を実現する「とき」が祈りの中で浮かび上がってきた。現場で奉仕しているシスター、協働者とオンラインで話合いを重ね、SNS世代の専門家の力を借りて現実的な問題から精神的不安まで、専門職が幅広く女性の相談に応える“ぷろじぇくとHana”が7月からスタートした。これはコロナ禍で「彼女たちが叫んでいる場所に近づき、共にいる」という修道会の方向性に他ならない。
- 支援の根底にあるもの ~愛~
バルセロナ大学教育学部のモニカ・ヒホン・カサ―レス准教授は礼拝会の教育学を「愛・解放・出会い」という価値に分類している。
コロナの外出自粛の折、性暴力を受けて妊娠した20代のCさんが福祉事務所を通してうちに来られた。彼女は一日に何回か裏庭でタバコを吸っていた。夜の喫煙タイムが終わると「話を聴いてほしい」と言われるのが常だった。小さいころから家族から虐待を受け両腕には無数のリストカットの痕があった。ある時私は裏庭に可憐なピンクのバラが咲き始めているのに気が付いた。彼女はタバコを吸いながらいつもそのバラに話しかけてくれていたようだ。しかし花やモノに話しかける彼女を家族は「気持ち悪い!」と一蹴していたという。「ここに来る前はシェルターって聞いて、窮屈な施設をイメージしてたの。でもね、ここへきてみたら、お花畑でしょ。そして住んでいる人たちの頭の中にもお花が咲いているみたいで。ここだけ宙に浮いているみたい!」というコメントを頂き、「ある種の本質をついているなあ」と嬉しくなった。私たちは生活の中で、神様や家族、姉妹から頂いてきた「あたりまえ」を女性たちに返していく。朝起きたら「おはよう」と声をかけ、食事の準備をして一緒に食卓を囲み、おうちをお花で満たす。「愛の体験」は「礼拝の体験」だ。それはつまり「存在を受け入れ承認する」こと。私たちのすべてを知っておられる主はどんな状態の私をも礼拝の中で受け止め支えている。だから私たちも主とともに彼女たちの痛みを感じ受け止めていく。私たちの創立者聖マリア・ミカエラにとって「礼拝するとはもうひとつの見方で世界と生活を観る事」だった。礼拝は独特の方法で「女性たちの解放と向上」の実践の中で私たちの使徒的働きを目指す方向へと実現していく。
- 支援の根底にあるもの ~解放~
コロナ禍で3度目の「DV→離婚」を迎えたTさん。ご一緒に自分自身の「生きづらさ」を見つめていく中で、自身の発達障碍に気が付き、専門の医療機関や発達障碍者支援センターへも通い始めた。しかしそれらの受診はひと月に1回か2回。生活習慣を変えるために「私たちと共に住んでいる」という環境を生かして生活のルールを一緒に組み立てた。彼女の希望で必ず寝る前には聖堂でその日のふりかえりと面談をして一日を終えている。この生活リズムを続けていくうちに、彼女は「実はこの障碍が自分自身を助けていた」面があった事を知り、全てを「周り」に合わせる必要はないのではと思い始めている。これが礼拝会の「解放」のひとつの側面。もう一つは「不正義の告発としての解放」だ。ある地方のシェルターではその地域のいくつかの民間シェルターと連携して毎年行政へ申し入れを行っている。又現場で知った彼女たちの苦しい胸の内、立ちはだかる「習慣」や「普通」という壁の高さを代弁していく。それは「自分の感受性に責任をもつ」という創立者聖マリア・ミカエラの姿勢だった。
- 支援の根底にあるもの ~出会い~
「出会いのシンボルはコムニオン(聖体拝領)。出会いは「愛」と「解放」を活性化させる原理。」(「礼拝会の教育学」)出会いがかなわなくなったコロナ禍の中で「どのように出会うか?」を問われた時に生まれたのが“ぷろじぇくとHana”だった。折しもうちのシェルターにはSNSの「神待ちサイト」で出会った神(=男性)を頼って北の国からきた17歳のAちゃんが入所した。彼女との生活は、時間帯、考え方、SNSの使い方などあらゆる面で私たちの生活を揺るがした。私たち自身が(恐らく彼女も)変容しないではいられなかった。私たちは女性たちの現実に心動かされ共感しながら同伴する。彼女たちの選択が理解できなかったり、同意できなかったりする状況の時でさえ。そのために、私たちは「本当に信頼できる存在」であることや、いわゆる「教科書に書かれている事」からも離れることを要求される。疎外の状況におかれた女性たちの現実に身を置けば、彼女たちの夢や強さと同様に傷や失望も理解できる。それは、彼女たちの「ものがたり」に近づくことで、共にいて希望を持って幻想や疑念を分かち合うことを可能にするのである。時に連日SNSや対面で辛いお話を伺っていると、心身に代理受傷の兆候が出ていることに気が付く。自分自身が厳しい状態になった時にあずかったミサで、「打ち砕かれた心を癒すために遣わされた主よ あわれみたまえ」という言葉を聴いた、その瞬間に自分自身と彼女たちの痛みのすべてを意識的に捧げ、復活の恵みを願っている自分と出会った。礼拝会の霊性は苦しんでいる女性の解放の体験のプロセスを通して深められていく。それは同時に私たちも共に苦しみの体験があり、ともに解放されていく体験だ。神の前には支援者も被支援者もなく同等にイエスの解放が必要なものなのだ。
- “ぷろじぇくとHana” の夢
コロナ禍に蒔いた“ぷろじぇくとHana” (専門職によるSNSを使った女性のための無料相談)の種は、ゆっくりだがすくすくと育っている。「インスタを観ました!」「知り合いから紹介されて……」と電話やメール、Lineの相談がちょうどいい具合に入ってくる時、「イエスののぞみだったんだなあ」と実感する。危機的状況で切羽詰まってかけてこられる方には専門機関を紹介したり、こちらから専門機関へ通報する。悲しみや怒りが溢れているときには、ただ静かに聴く。「困ったときのHana頼み」と言って、しばしば連絡してこられる方々はまるで家族か、古くからの友人のようだ。現在は「東京・大阪・福岡限定」ということで行っているが、実際は日本全国から問い合わせが来ている。又「地域を拡げませんか?」「何か連携出来れば……」と声をかけてくださる同志の方々もいる。
私たちには夢がある。このHanaをもっとSNS世代に届けたい。そのために、私たち自身の更なる変容と模索が必要となってくるであろう。そしてもちろん多くの方々と連携してイエスが各地でユニークなHanaを咲かせていくのを見てみたい。なぜならイエスはあんなにも自由にこのような女性たちに大きな愛を示していたのだから。