私たちの生活スタイル ~礼拝と解放の統合~
礼拝会の教育学における出会いのシンボルである コムニオン(聖体拝領)
礼拝会の教育学の他の価値でもそうであったように、出会いはカリスマの根本的な要素と緊密につながっています。それはエウカリスチアです。養成の総合プランではエウカリスチアの文化を次のように定義しています。
「私たちのあり方とアイデンティティを表現しているものからくる私たちの「家訓」はエウカリスチアです。(…)だから私たちは、個人的・共同体的な生活の頂点として、エウカリスチアを祝うのです。そして生活をエウカリスチアヘ、エウカリスチアを生活へ持っていくのです。」[1]
修道会における「礼拝と解放」のカリスマの中心はイエスの復活の神秘(生、死、復活)の記念で、それは兄弟たちと共に希望のメッセージを分かち合うようにと招くのです。[2]
礼拝会の教育学において、出会いのインスピレーションを与えられるしるしは、パンを割き、拝領する 行為です。聖体拝領自体が出会いの表れなのです。なぜならば各参列者の神秘による結びつきを意味し、ひとつの体の中で、兄弟的な出会いを可能にするからです。
この深い結びつきは孤独や難解な道から生まれるものではありません。むしろ、パンを割くなどの日常的な姿勢の中で生まれる、神秘との、兄弟との一致なのです。ありきたりの結びつき が栄養を分かち合うようにさせるのです。トッフォリ(2000)はこの聖体拝領を希望の祝いのシンボル、兄弟愛を体験するための手段として描いています。
エウカリスチアの文化の概念は、教育学的路線においては、尊重することやプロセスを分かち合う事への招きとして解釈されています。礼拝会のやりかたで、分かち合いを創造するという事は、兄弟的な付き合い、相互扶助、優しさ、承認、傾聴、他者の真価を認める事といった姿勢を具体化することです。
修道会のある文書では、分かち合いの概念を体験するために以下の様に招いています。
「無私の人間関係を培う事は、結びつきを作ります。そして開かれ、連帯し、簡素な方法で共同責任性を促すのです(…)心優しく、信頼のおける人間関係を作りだすのです。」[3]
同じテキストにはご聖体の意味が、愛の食卓と交わりの宴を分かち合う力として定義され、それは教育学的実践にあてはめると支援者が次の様になるようにと駆り立てるはずです。
「違いを尊重し、多様性の中に一致を創り出し、対話を促進し、絆を作りだし、一致の橋渡しをする。」[4]
日常生活へのエウカリスチアの影響は、コミットメントの源泉であるはずです。存在する事、エウカリスチアになる事は女性たちとの連帯の橋を作りだすように駆り立てます。
先に説明した通り、礼拝会の教育学を含むキリスト教的視点は排他的ではありません。教育グループや入所している女性たちにキリスト教の信仰を義務付けようとしているのではありません。愛・解放・出会いはキリスト教世界の排他的な原理ではなく、おそらくキリスト教的視点がその意味を広げる事を可能にするでしょう。それは無私と奉仕のしるしとしての愛の原理、アイデンティティと真正さへ向かう道のりとしての解放の原理そして他者との兄弟的一致としての出会いの原理を体験するように招くまなざしなのです。
[1] 礼拝会(2006)「カミナンド」養成の総合プラン マドリッド―ローマ p35
[2] この養成の総合プランはエウカリスチアの力学と構造を以下の様に書いています。変化と和解の機会への招き(典礼のはじめの部分)、イエスの言葉を受け入れ、変えられるために自分自身を捧げる場(奉献と奉納)、自分自身とイエスの人生の出会いの瞬間(聖体拝領)、そして最終的にミッションヘの祝福と希望の瞬間への導き(感謝の行為と結びの儀式)。エウカリスチアは礼拝会のカリスマへ意味を与えています。礼拝会(2006)「カミナンド」養成の総合プラン。 マドリッドーローマp36
[3]礼拝会(2011)礼拝修道女―21世紀の神秘家であり預言者 第29回総会文書 グアダラハラ 礼拝会(内部文書)p14
[4]礼拝会(2011)礼拝修道女―21世紀の神秘家であり預言者 第29回総会文書 グアダラハラ 礼拝会(内部文書)p15
「礼拝会の教育学 第6章」より