信仰共同体と平和旬間と女性
「主の記念の祭儀は、わたしたちの共同体の中心であり、頂点である。エウカリスチアの宴に日々あずかり、キリストの生命に養われ、そして共同体を築く努力と喜びを祝う。その祭儀がもつ賛美、奉献、感謝の次元は、わたしたちが与えられた使命により完全に応えるように要求する。この祭儀の延長として聖体の前で礼拝する。礼拝するとき、ひとりであっても、共同体であっても、わたしたちは一致のしるしとなる。」(会憲47)
ミサ…
・「聖なる三日間(キリスト教の原体験)とその再現としての典礼(秘跡)」
・「目に見えるシンボルを通して目に見えない神の恵を体験する」
・「礼拝と生活を通して記念するという事は、いつも未来における完成(終末)を目指す。すなわち、現在 という時間と現在に行われる記念とは暫定的なものであり、終末によって完成されるものである。記念は暫定性のうちに生きる人々に永遠に対する感覚を養ってくれる」
・「シンボル(サクラメント)は過去の記憶の現在化と関係する。宗教(キリスト教)はその記憶を共同で 維持し深めるために儀式を行う。」
(「典礼史」具師の講義より抜粋 )
いま日本のカトリック教会は、平和旬間(8/6~8/15)の真最中である。私の父も被爆者だが、普段は饒舌な父が、つい最近までほとんど被爆体験について語らなかった姿勢からその出来事の重さを肌で感じてきた。戦争はもちろんであるが、社会や家庭の中にも暴力が絶えない。その原因は大きな怒りであったり、積み重なった小さなストレスの記憶の爆発のようにみえる。そして最終的に、犠牲になるのが女性やこども、そして「その時弱い立場にある方々」ではないだろうか。
女性のPMSを引き起こすものも「長い歴史の中で女性が被った痛みが、蓄積されていったもの。痛みは男性による征服や、奴隷扱い、搾取、レイプ、さらに、出産、子を失うといった経験によるもの」(「The Power of Now」Eckhart Tolle)だそうだ。
ミサの中で信仰によって、否定的な記憶が「主の受難・死・復活の記憶」に変容される。
具体的には、「告白による浄化、言葉の典礼による存在への照らし、拝領によるキリストの命との一致、閉祭による派遣」をいきる。
平和旬間のいま、わたしたちは、女性の痛みに同伴する祈りと行い(礼拝と解放)へと、共同体で派遣される。