コロナ禍の修道生活
夜半に祈っていると、ひたひたひたと聖堂に近づく足音がした。入口に目を向けると小学生の女の子が私を見つめている。「眠れないの?何か困ったことがある?」と尋ねると「ううん。本当に祈ってるか見に来たの」と。コロナ禍の中、修道会の集会はZOOMやSkypeになり、終わるころには日本は夜中になっている。集会が終わってから寝る前の祈りのために聖堂に行くと夜半だ。それでも世界中の姉妹たちの明るい表情と出会うことができるのは本当に嬉しい。
「共同体生活は修道生活の本質的な部分である。これを生きるとき、私たちは教会における一致のしるしとなる。会が選択した線に従って、共同体生活を計画し、使命を生きるように組織する。エウカリスチア(ミサ)はわたしたちの共同体に生命を与える愛の根であり、樹液である。この愛は神体験を可能にし、兄弟たちとの交わりに変容し、わたしたちの徹底的な献身において人々に解放をもたらす。」(礼拝会 会憲)
日本においては多世代共生の困難さがある。そして日本代理区に属するカンボジアやベトナムの共同体は多文化共生でスペイン・インド・フランス・ベトナム・アルゼンチンの国籍の姉妹で構成されており、共通語の選択から困難を極めている。問題は山積みだが世界の姉妹が顔を合わせると意外に同世代の姉妹がいて希望を感じる。
修道生活は共同体生活が基本であるが、共同体によってその在り様は様々だ。又今私たちは未来に向けて「新しいリーダーシップ」を見出そうとしている。教会や修道会だけでなくどこでも「パラダイムを打ち破る」ということが求められているのではないか。「新しい葡萄酒は新しい革袋に(マタイ9章)」という事だろう。
私たちの場合は「礼拝の中で変容される」に任せる。PCやスマホでローマやアルゼンチンの姉妹たちと顔を見ながら簡単に分かち合いができる世の中になった。初めて会う礼拝修道女とでも共通の話題があり、すぐはなしができるのは大きな喜びだ。でも言葉の壁があり思うように気持ちを伝えられなくて寂しく思う時もあるのも現実だ。人はみなひとり、だからイエスを求め、人と繋がりたいと感じる。
「本当に夜中まで祈っているのね」と先の小学生。
「そう。私にはこのかたしかいないの」私。
「ふーん 意味わかんない」小学生。
きっと今日も世界中の礼拝会でこんな会話が繰り広げられていると思う。変容されるに任せていると神様は時々こんなかわいいプレゼントも下さる。