カトリック正義と平和協議会(2/16~18) 全国会議へいってきました。
私たちは、今なぜ「正義と平和」にとりくむのか?「コンセプトペーパー」より
「明治150年とカトリック復活150年」
・カトリック復活150年を経た日本カトリック教会の根本課題は何か?
250年以上におよぶキリスト教迫害の時代が終わり、明治政府は1889年の大日本国憲法の発布により「信教の自由」が謳われましたがそれは「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」という条件のもとでのみ認められた信教の自由でした。又当時の第一バチカン公会議に基づく教皇庁の姿勢もあり、よく祈り、教皇及びその代理者への従順心には長けていましたが、一般社会の動きとのかかわりは薄く、孤立しがちな教会であったともいえるでしょう。大正になると様々な宣教会が参入し、日本のカトリック教会は国際的になりましたが、その後軍国主義への傾斜を強める日本社会のもとで1939年の「宗教団体法」により教会に対する国家の監督が強化され外国人教区長はみな辞任することとなりました。苦しみに満ちた暗い戦争の後1945年敗戦に伴い、信教の自由をはじめ、国民の人権も保障される時代が始まりました。1970年代になると「アジア司教協議会連盟」に加盟し、アジアの諸教会と連携を始めます。又ミッションスクールやカトリック信徒の作家による文学活動、修道会・カリタスによる福祉事業、キリスト教一致運動により、日本社会に良い印象を与えていたのではないでしょうか。信者数は戦後すぐの11万人から現在44万人へと増加しました。信者の高齢化が進み、司祭、修道者の召命が減少している中で、これから日本のカトリック教会をどのように形作っていくべきなのでしょうか。
・明治150年の光と影
2018年には明治維新150年を迎えます。はじめの77年は、近代化、帝国主義、軍国主義へと至る年月で、後の73年は民主主義の年月だったといえるでしょう。「明治」は天皇を中心とする立憲君主制と資本主義を両輪として欧米の文化や仕組みを吸収し、現在に至る私たちの生活のさまざまな事柄の輪郭をつくり上げた時代だったでしょう。政府は、2018年を「明治以降の歩みを次世代に遺す」「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」の年にすると謳います。しかし政府方針には、日本の明治以来の歴史の負の側面について何も語られていません。明治の文明開化により人々の可能性は確かに広がりました。けれども他方で富国強兵政策のもと多くの人々が生命を失い人権を侵され、自然が破壊され、文化を奪われた事実があったことも忘れてはならないでしょう。一方的な明治礼賛により、歴史を肯定一辺倒に染める歴史認識が拡散・定着しないよう注視する必要があります。不の側面とは、たとえば、欧米列強の植民地にされないかとの危機感から軍備拡張路線を選択し、日本がアジアの帝国主義国家になったこと。それがアジア諸国への「侵略」「植民地支配」という結果を導いたこと。長州・薩摩藩を中心とする新政府軍から「賊軍」の汚名を着せられ過酷な弾圧を受けた会津藩や東北諸藩、アイヌや琉球に対する徹底的な差別と一方的な犠牲をしたこと。女性は民法上禁治産者扱いされ、高等教育や政治参加も禁じられ「良妻賢母」の枠に封じ込められ、人権を不当に制限されたこと、などでしょう。カトリックの立場からすれば、明治以来の150年間は欧米から技術文明、社会制度を吸収することのみに力が注がれ、その文化の根幹をなすキリスト教について理解し受け取る事への関心は薄いままであったといえるでしょう。また敗戦にいたるまでの国家神道体制により、人々 の心の自由が抑圧されたため国民の間には宗教への無関心と冷淡が醸成されてきたとも言えないでしょうか。いま私たちカトリック教会は、日本社会に内面への視点「人間」を問う課題を提起する役割にもう一度向き合わなければならないのではないでしょうか。
・カトリック教会の記憶の浄め
カトリック教会の側も、この歴史の負の側面に追随し、妥協・協力してきた面がなかったかを今自らに問い直すべきではないでしょうか。それは平和と政教分離を守ることにあるでしょう。明治政府は開国30年余りで列強の一員となりさらなる軍事的膨張を引き起こし、昭和の軍国主義と植民地支配へと暴走していきます。軍国主義と国家神道の統制のもと、まず学校生徒の神社参拝が強制されるようになりカトリック教会でも「上智大学生靖国神社参拝拒否事件(昭和7年)などが起こり、特に奄美大島では信徒に対して背教誓約書に署名捺印が強制されるなどの圧迫がありました。これらによりカトリック教会は逆境に追い込まれ、そのか弱い存立基盤をなんとか守るための窮余の策として当時の政権の政教政策と軍国主義、侵略戦争にバチカンを巻き込みながら妥協して行きました。それは1937年に発行された「公教会祈祷文」の次のような祈りに読み取れます。「ああ天主、我らは主の御前に平伏し、光輝ある我が大日本帝国に生まれ出でたる幸いを、深く主に感謝し奉る。主は主のご栄光のためにわが国に極東に於ける特殊の使命を与え給ひ、建国以来二千六百年の間、常に天祐と神助とを以てわが国を守り給えり…」(皇国のためにする祈り)こうしたカトリック教会の姿勢を支える根拠は、「神社参拝は愛国心と忠誠を現すもの」とする文部次官「回答雑宗140号」を「宗教行為ではない」と自己理解したことに基づき手にした「文部省が保証したから信者も神社参拝が許されている」とした布教聖省でした。これによりカトリック教会は、政府が推進した国家神道を諸宗教の上位に位置づける「神道非宗教論」を黙って飲み込みました。そこからカトリック信者が天皇を尊敬し天皇に忠誠を尽くすことは、イエス・キリストの支配と対立しないという苦しい理屈で教会を維持しようとしました。1940年に施行された「宗教団体法」によりカトリック教会は「日本天主公教」として認可さえましたが、これにより教会はますます国家統制と戦争協力を強いられることとなります。たとえば「皇国」の要請に率先して従い「本教団の創造力を結集して大東亜戦争の目的完遂に邁進すべし」(日本天主公教戦時活動指針・綱領 昭和8年)などの訓示が出されました。とはいえ信者に神社参拝や軍国体制への協力を強いるのは信者個々の良心に抜き差し難いジレンマをもたらしたでしょうし、何より戦争によってアジア・太平洋の多くの人々を侵害したことは、神の御心では決してなかったはずです。日本とその地における戦争責任について白柳大司教は1986年第四回アジア司教協議会連盟総会いおけるミサの説教で告白し、1995年に発表された「平和の決意」司教団メッセージにおいても告白しています。こうした過去の歴史の誤りの告白に基づく償いのためにも、平和の問題について踏み込んだ発言を続けています。その際教会の戦争協力のきっかけとなった政教分離問題について、日本カトリック司教団は戦後60年平和メッセ―ジで次のように語っています。「かつて軍国主義政権の圧力のもとで、当時のカトリック教会の指導者は靖国神社をはじめとする神社参拝を心ならずも「儀礼」として容認していました。いままさに同じ危機が目前に迫っています。すなわち拳法改正論議の中で政教分離の原則を緩和し、靖国参拝を「儀礼」として容認しようとう動きが出ているからです。日本の政教分離は天皇を中心とする国家体制が宗教を利用して戦争に邁進したという歴史の反省から生まれた原則なのです。」これを受けて2007年にも日本カトリック司教団は「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を発表し、明確に「わたしたちは基本的人権である信教の自由を保障する政教分離の原則を堅持していく事を強く訴えます」との意思表明をしています。
・回心と未来
世界には今、経済格差の拡大に基づく暴力、差別と憎悪、また宗教の名による分裂が拡がっています。その根本には、人々が「神」という言葉の意味を見失い、倫理や人間の幸福についての規範がわからなくなっているという現実があると思います。戦後60年の2005年に日本カトリック司教団が発表した「戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道」-今こそ預言者としての役割を」では日本のカトリック教会が取り組むべき課題を「人間の尊厳」・「アジアの国々との和解と連帯」・「富の公正な分配と環境保全」だとし、特に「非暴力」に焦点が当てられ、カトリック教会の社会教説が常に第一に語る「人間の尊厳」が日本国憲法や世界人権宣言などと共通する、平和の前提であることが強調されています。教皇フランシスコも、格差・貧困者・弱者の社会的排除、個々人の分断という状況に注意すべきことを強調しています。教皇のヴィジョンは、神の「いつくしみ」と「和解」でしょう。「福音の喜び」は福音宣教に向かう信仰という「神との和解」を主題としますが、それを全うするためには社会における「人間同士の和解(社会正義)がなくてはなりません。そして環境問題、すなわち「人間と自然の和解」をテーマとする「ラウダート・シ」は外の自然環境との和解を取り戻すためには、人間はまず内面的環境における自己との一致を取り戻すべきことを語ります。「神」「人間相互」「被造界」「自己自身」との全方位的な「和解」を取り戻すのは、別別ではなく一つに統合される行為ではないか一つに統合される行為なのではないかと問いかけるのが「ラウダート・シ」のキーコンセプト「総合的な(インテグラル)エコロジー」です。それは環境問題と社会正義の問題、そして神との和解に基づく自分自身の内的統一の問題は別々のことではなく、すべてが結ばれ合った一つの問題だという事を言います。こうした和解といつくしみを妨げるのが①グローバルな市場化・企業利益・強欲の追求また②力による支配・軍事化・経済力・力による治安の強化という二つの特徴で示されるでしょう。日本の司教団は戦後70年に当たる2015年に、「平和を実現する人は幸いー今こそ武力によらない平和を」を発表しました。そこでは①「現代世界憲章」にならう教会として、人間のいのちと尊厳の問題に沈黙できないとする。②「地上の平和」とヨハネ・パウロ2世「広島・平和アピール」に基づき、日本のカトリック教会の平和への指針と戦争放棄への決意を明確にする。③それが特に日本という国と民たちが担うべき使命だとする。④それゆえ歴史認識と集団的自衛権行使容認などと憲法9条は会の危機、また沖縄県民の民意という、具体的な政局問題にも触れています。➄こうした社会の危機的状況の背景について教皇フランシスコが強調する貧困・格差・環境問題との関連についてもしてきしています。ところが今の日本政府は、従来の憲法解釈まえ変えて集団的自衛権を含む安全保障政策を進めています。そこでは抑止力に基づく「積極的平和主義」なる言葉も喧伝されています。しかし教皇フランシスコは「平和とは、すべての人の全人的発展の実りとして生まれるものです。そうでないものは、未来に向かうものではなく、常に新たな紛争と種々の暴力の火種となるのです」(福音の喜び219)といいます。フランシスコ教皇は、つい最近2017年11月10~11日、バチカンで開催された国際会議「核兵器のない世界と統合的軍縮への展望」に際して次のように発言しました。「核兵器は見せかけの安全保障を生みだすだけだ。核兵器の使用による破壊的な人道的・環境的な影響を心から懸念する。(核兵器の)偶発的爆発の危険性を考慮すれば、核兵器の使用と威嚇のみならず、その保有そのものも断固として批難されなければならない。この点で極めて重要なのは、広島と長崎の被爆者、ならびに核実験の被害者の証言である。彼らの預言的な声が、次世代への警告として役立つよう願っている。」現代社会に閉塞をもたらす「死の文明」の根底には、権力者の飽くなき欲望と、そこから波及する「恐れ」の連鎖があるのでしょう。これに対して「神は愛である。愛には恐れがない。」(ヨハネの手紙)は混とん嘘・偽りよりも人間本姓への信頼、合理性・真理・正義の方が神のわざとして根源的であることをいいます。日本の教会は、その現実を世界い進んで示していかねばならぬでしょう。
講演会①「改憲、信教の自由の危機 日本のカトリック150年の節目を迎えて」
~国家神道と信教の自由~ 島薗 進さん(上智大学大学院実践宗教学研究科教授)
日本人は愛国心が天皇に結びつきやすい。国民の天皇に対する親愛の情が根深い。日本人のメンタリティは忠節に高い価値を置く傾向がある。かつてキリスト教徒もアメリカも天皇の存在に危機感を持ちながらも教育勅語を擁護しようとしていた。そして日本国は西洋の植民地主義に抵抗するために天皇や武士道に頼った。平成天皇は平和と文化を担っている。天皇家にとって大切なのは国体。王政は革命によって大きな犠牲を伴ってできたが天皇は万世一系。かつてカトリック教会は王政と深いかかわりがあったが現在は平和を掲げている。世界の民主化。日本も世界と調和していく姿勢が必要。現首相は戦前の日本のあり方を取り戻そうとしている。具体的にはアメリカ従属。改憲による民衆の権限の縮小。
講演会②「最近の政治状況について」中野 晃一先生(上智大学)
今の段階では改憲勢力も見通しは立っていないでしょう。阿部政権も揺らいでる。籠池氏が逮捕されて6か月経過しているのも判決が確定している訳ではないので人権侵害。国民が阿部政権を指示しているというよりも他がないからという消極的指示が現状。(麻生自民党の方が阿部政権よりも得票率が高かった。)(理由として・野党がバラバラ。・小選挙区制←非民主的だがこの制度では変える事が出来ない)これらのからくりで支えられている政権。阿部政権が自覚している事はメディアを抑え込み、野党を分断し、多くの人に政治を諦めてもらう事。(・メディアはスポンサーが喜ぶことをやるから、経団連企業が潤う事をする。)
今は野党共闘の機運が出てきていて一年前とだいぶ違う。ポスト阿部の話が出てきている。リベラルのともしびを消さないで、自分の中から出てきたものでアプローチする。9月の総裁選では阿部再選がシナリオ通り。国家に耐えられない人なので黄色信号が出てくるかもしれない。これからどこまで自民党を追いつめられるかがカギとなるだろう。昨年の共謀罪もものすごい強引さで動かしていった。改憲に関してはハードルとなるのは国会と国民投票。恐らくお金を使ってメディアを統制してくるかもしれない。阿部政権の支持率が下がって来れば自民党の中からも疑問が起こってくるかもしれない。
先の選挙でも多くの若者が自民党に投票したといわれている。改憲されて実害が及ぶのは若者。若者に意識してもらうために私たちが出来るのは種を撒く事だけ。若者は地道に誰も見ていない所で動いた人たちの背中を見ている。若者は自分たちの生活に地かい部分には関心がある。(バイトを辞められない、生活できない、結婚子育ての環境)メディアを見ていると阿部さんが活躍しているのように見えるので本当の事を知らない人が多い。
阿部政権がアメリカに追随する理由。押し付けられた憲法と言いながら追随している矛盾。押し付けられたといっている人達は戦後の日本の政治の中心に立つ人たち。権力者が押し付けられたと感じているのは当然のこと。なぜなら日本国憲法は権力を縛るものだから。アメリカからののれん分けの発想がある。アメリカに追随していればいつか自立できるかもしれないという幻想を抱いているのでは。根本に「徳の源泉は日本にある」という発想があるのでは。上に仕えて下を抑え込む、アメリカに仕えてアメリカに葉向かうものを抑え込む。アメリかと同一化しようとしている。やばいのはトランプに対しても同じことをやり続けている今の政府。
各グループからのまとめ
沖縄グループ
・敗戦時沖縄が捨て石となった。・現在も米軍基地の74%が沖縄にあり、辺野古に基地を新設しようとしている。・体験学習を促進させる。・沖縄に日本人司祭を派遣したらどうか・沖縄紙を購読する。・基地を沖縄に押し付けているのは本土の責任。
改憲グループより
・憲法9条は海外からの評価も高い。海外からプッシュしてもらう必要があるのではないか。・憲法9条の大切さを祈りで伝えるヴァリエーション。・改憲の実害が及ぶのは若者、若者に伝え、その方法は若者から学ぶ。・宗教者への働きかけ・カトリックの施設で働く人を大切にする。・意見の違う他者との連携
原発グループより
・署名運動(フィードバックもする)・SNS各メディアによる情報の拡散・対案を提示する・若者に伝え将来の総理大臣を育てたい。・教会で政治的な話をする困難さ(祈りの場だから…といわれてしまう。)・署名活動を教会でも抑えられてしまう事がある。(東電の株をもっているのでなどの理由もある)無知無関心の蔓延・日本人は自然を愛さない・自然を利用する事には関心があるが守ることには関心がない。・ライフスタイルそのものの回心。・地道な対話・被爆者への差別・原発産業の裏にある経済的問題・代替の再生可能エネルギーの実践例などをブログにあげていく。・司教団の呼びかけの一歩先がつたえられるといいなあ。・核兵器と原発のつながりのメカニズムを丁寧に説明していく。・原発反対のグッズを使って姿勢を表明していく。
まとめとして~勝谷司教さんから
・教会として政教分離の姿勢を貫いていく。・正論は必ずしも正義にはならない。・聖堂でシュプレヒコールを上げるなどの行いについていけないなど活動に対する苦情が来る。・司教団メッセージであるにも関わらず小教区のメンバーがとり上げない。・伝え方のヴァリエーションを増やしていく。(祈り・デモ集会)・赤旗にカトリック教会が寄稿すると反発がある・再生可能エネルギーを利用しライフスタイルを変えていく・太陽光発電の電気の買い取り価格が下がっているがそういう事をどう受け止めていくか・NWMには若者たちが集まり続けているが、彼らに正義と平和の活動をどう伝えていくか。