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女性とともに -Hacer-

➄「礼拝会の教育学 第二章 直観の教育学と潜在的な知識」

2018年6月12日 | CATEGORY - 女性とともに

 

出発点:体験と潜在的知識

 

ミカエラの教育学は直観の教育学です。それは介入(生活に入り込みともに歩む)の体験を通して作り上げられて行きました。

 

教育学的感受性は人間的な態度でもあります。同伴している女性たちの現実に心動かされ、共感していく能力です。それは彼女たちの選択を理解できなかったり、同意できなかったりする状況も含みます。教育学的感受性は教育グループが本物である事を求め、教育学的な研究における確信から離れるのです。売春のコンテキストにおいて、その現実に身を置く事は、彼女たちの夢や強さと同様に彼女たちの傷や失望をわからせてくれます。おそらく19世紀にマリア・ミカエラや修道会の最初のシスターたちに起こったことは引き続き21世紀のシスターや支援者に起こり続けているのです。教育学的感受性とは、女性たちの物語に近づくためのものであり、彼女たちがどうやって生き、その課題に意味を与えているかを理解するためのものであり、特に、共[1]にいて希望をもって幻想や疑念を分かち合うためのものです。

 

感受性と教育学的実用主義は礼拝会の教育学を特徴づけています。論理に当てはめるのではなく現実に向かい、社会学的分析を実現するためではなくて現実に留まるのです。むしろ礼拝会の教育学は、現実の中にあって、女性たちに寄り添うこと、体験を分かち合う事、チャンスの枠組みをつくりあげることといった、出会いの体験を促進するために現実を手放さないのです

 

マリア・ミカエラの体験:最初の教育学的アプローチ

 

トッフォリ(2000と2008)はひとつの教育学的スタイルを、マリア・ミカエラの深い神秘主義と首尾一貫した奉仕の生活の間の融合として書いています。生き生きとした教育学的な事業は聖体と愛徳のはしため礼拝修道女会の起源となり、観想的な生活と活動的な生活[2]の間で相互に影響を及ぼしあう事から生まれるのです。

 

マリア・ミカエラの生活スタイルと教育方針の間のより緊密な関係をもう少し理解するために、その教育学的実践を貫いている個人的な3つの特性について掘り下げる必要があります。3つとは責任のある憤り、情熱的な共感、要求の多い愛です。

 

ミカエラ・デメシエーレス:責任のある憤り

 

ミカエラの感受性は売春を選んだ女性たちの味方となるほどに、活発で責任感のある憤りにまで成熟していきます。このようにその感受性によって、女性たちに衛生手帳[3]を取り戻させたり、そのような環境の女性たちから屈辱的な襟[4]や他のしるしを取り除くように訴えていく活動と同時に、ブリュッセルの警察との間を仲裁していたのでした。

 

修道会が生まれる数年前、マリア・ミカエラとその少女の出会い、彼女の博愛心と奉仕の召命が1845年に最初のセンターを開くに至らせたのでした。初め、ミカエラはフランス人のシスターたちの修道会にそのセンターの管理を譲った方がいいと思っていました。その一方で彼女は資金や物質的な援助を探し、社会復帰活動を提供する婦人会を組織していました。おそらく今日私たちが女性の権利を守るための政治的、人道的な活動としてのコミットメントと呼んでいるものでしょう。間違いなく、それはその感受性と責任のある憤りから生まれた活動です。

 

マリア・ミカエラ:情熱的な共感

 

1992年にはトッフォリ、1968年にバリオスがショールの少女との出会いを、一つの根本的な体験として強調しています。ミカエラはその少女の境遇を知って、自分自身の先入観に、はっと気が付いたのです。売春や貧しさのスティグマの重さを意識し、より伝統的なレッテルや抵抗と戦い、女性たちの言葉や必要へ心を開きました。その少女との出会いは心を動かす関係となり、双方を変容させました。少女はミカエラとの信頼へ心を開き、傾聴された、承認されたと感じ、彼女自身の不安を打ち明け、そして売春によって引き起こされていた忘却や無関心の傷への癒しを得ていたのでした。ミカエラは女性との親密な絆と責任を感じ、仕事探しや家族との接触の再構築などを助けていました。しかしボランティア的な時間通りの活動では不十分であるということに気づくのでした。売春の女性たちのための社会資源はなく、社会との統合の可能性はゼロに等しく、社会的差別があまりにもひどかったのでした。

 

マドレ・サクラメント:コミットメントした愛と要求の多い情熱

 

マリア・ミカエラが「ただ一人のためだけでも私の命を与えるでしょう」[5]と言及しているように、支援する人の数ではなく介入の質に心をとめていました。センターにいて、その時の現実に合った社会復帰の選択肢を探している女性たちに対する心遣いへと変容する愛なのです。

 

ミカエラは女性たちを子ども扱いしません。寮は囲い場ではなく生活共同体です。今日も私たちは菜園や庭の世話、家庭内の仕事の責任を分かち合っています。労働活動は特に意義がありました。特にその時代には、衣類に繊細で芸術的な刺繍をすることがとても流行っていました。又マリア・ミカエラは家族的な雰囲気を望んでいました。そのために細やかな心遣いを繰り返し強調し、余暇や気晴らしの活動によって、家族のように共同生活することを勧めました。

 

修道会の歴史・社会教育学の生きた歴史

 

この創立者によって始められた、直観的で実用主義的な奉仕の教育学は、3つの大きな時代を経てきたと思います。

 

一番目は、マリア・ミカエラによる修道会のはじまりと最初の創立と20世紀のはじめまでです。第二は60年代までの修道会の拡がりと強化の時期です。そして最後はカリスマと関係する教育学的な挑戦と革新の時代です。それは全盛期の70年代から現在に至るまでです。

 

最初の創立のための起源から:女性のための革新的な挑戦

 

19世紀には、主に病人や貧しい人、子どもたちなどの疎外の状況に生きている人々への福祉や教育に献身する女子修道会が沢山創立されました。公的な制度の不足の時代で、女子修道会がシェルター、病院、愛の家を通して社会的役割を果たしていたことは不思議なことではありません。主に福祉的な法制度の不足のときに不可欠な仕事をしていました。

 

しかしながら、必要性は多かったのですが、疎外の状況にある女性たちにとっては非常にわずかな機会しかありませんでした。貧困のサイクルから離れることは難しかったけれども女子修道会は、貧しさから出るために唯一のチャンスでした。そしてある場合には、女性への差別を告発するための唯一の社会的手段だったのです。

 

この修道会の創立は驚くほどに早く、もし1845年に最初のシェルターが開かれたことを考慮に入れるならば、その時ミカエラはまだライカ・コンプロメティーダ(コミットメントした協働者)でした。

 

マリア・ミカエラはコレラで1865年に亡くなり、その時代にマドリッド、サラゴサ、バレンシア、バルセロナ、ブルゴス、ピント、サンタンデールに寮が開かれました。社会事業の専門的な活動によっては特徴づける事は出来ない時代としての扱いになりますが、スペインにおける刷新であり、売春の中にいる女性たちのための事業のはじまりとみなすことが出来ます。

 

強化期間:寄宿制度の黄金期

 

20世紀のはじめの社会政策は、権利を回復する事よりも援助によって特徴づけられます。更に言えば、衛生学の論理は、貧しい人や精神病患者、特に売春の背景を持つ女性たちへの非難となっていたのでした。数年後、20世紀の戦争や数々の対立によって引き起こされた人間的社会的ドラマの中の震えるほどの怒りの詰まった時代が、現代の社会教育学の芽を出させるのでしょう。それが社会教育学や社会事業の専門化の始まりです。

 

20世紀のはじめに修道会は強化され、スペイン各地への創立が続き、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アジア、アフリカといった諸国への創立をもって拡大する時代が始まります。この時代と20世紀の半ばまで修道会はその教育学的関心の対象を、売春の状況にある女性に加えて、様々な脆弱な状況にある女性たち、例えば、貧困、文盲、十代の妊娠、家族の遺棄、消費主義などにまで拡大してきました。

 

この時代には、寮生のために配慮し、その多様な現実に対応するためにいくつかの教育学の修正がなされました。それは作業所の専門性と多様性、専門学校、若者たちのためのシェルターと寮の構造の拡張です。

 

現実に対峙した公会議から:コミットメントされた変革

 

ヨハネ13世によってすすめられた第二バチカン公会議は、教会や修道会のための、大きなスタート、見直し、危機の分析の時と想定していました。多くの女子修道会にとってコミットメントの刷新やカリスマの見直しの時でした。又教育学的実践のレベルで礼拝修道女は女性に関する事業の在り方の徹底的な刷新をはじめました。心にかけている女性たちの問題があまりにも多様なので、シスターたちにとって統合的で現実的な刷新をする事が難しかったのです。

 

修道会のアイデンティティに関連して、礼拝修道女はカリスマの深い分析と直近の歴史の見直しを始めました。十分な内省の後に、修道会は大きな真心でもって創立のカリスマの起源を再開することを決定しました。それは売春の状況にある女性たちのための仕事です。

 

21世紀のはじめからは、他の人権擁護、女性、移民の団体とネットワークで働いていったことが強調できます。チームの中では、国内の地域においても、国際的なフォーラムや特別な会議においても、感化と啓発を強化していきました。最後の数年には、社会的介入と政策的事業は、女性たちが十分な権利を持った市民になっていくために、被害者である事から抜け出すという方向性に向かいました。

 

礼拝会のアイデンティティの教育学的特徴

 

私たちは4つの路線から、人間とその身体的、霊的、実存的な相を統合しようとするコンセプトを強調することができます。それは、自己覚知をすすめること、識別と内省、情緒的成熟そして人間的成長を促進するための健全さです。

 

エウカリスチアになるように呼ばれている女性たちは、和解して、真心から分かち合う事を願っています。疑念や人生で起こる避けられない不慮の出来事といった危険を受け入れることへ招かれているのです。しかしそれは希望や信頼の喪失を意味していません。つまり、女性たちが女性たちの間に連帯の橋を作りだすということなのです。

 

礼拝修道女のアイデンティティに関していえば、楽観主義になる事、相手を尊敬すること、個人の限界と共に成長の要素を識別することの勧めといったような慈しみの行為の表れが、教育学的内省にとって、非常に興味深い印象を与えています。それは他者に触れられるままでいて、出会いに開かれていることを意味する信頼の行為なのです。

 

[1] ミレーナ・トフォリは19世紀の教育学におけるかなり近代的な方法として「参与観察」と「個々にカスタマイズされた養成」について話す時に、この特徴について述べています。TOFFRI M.(1981 )「聖マリア・ミカエラの自叙伝」マドリッドBAC.Biblioteca de Autores Cristianos,p94; TOFFORI, M(2008)「神秘家と預言者」Publicaciones Claretianas,Madrid.

[2] ミカエラの生き生きとした生活状況や霊的生活の成熟に関する詳細な分析は以下の書物で知ることが出来ます。TOFFOLI.M (2008)「ミカエラ.神秘家であり使徒.」Publicaciones Claretianas,マドリッドp420

[3]警察の一連の腐敗や恐喝を前にしてマリア・ミカエラが戦う姿勢を見る事が出来ます。その時代に売春を選んだ女性たちは、性感染症、主に梅毒の保菌者でないことを保証する衛生手帳を携帯させられていました。警察の恐喝とはそれらの手帳をごまかす事でした。その状況の詳細は以下を参照。TOFFORI.M(2008)Micaela.Mistica y Apostol.Publicaciones Claretianas,マドリッドp421の8

[4] 19世紀、売春をしていた女性たちは、洋服にある種の襟とマークを付けていました。そしてスティグマや社会的差別の重さを意味するそれらのマークは、「別の女性たち」つまり売春など、その時代特有のジェンダーパターンに合わない女性たちをコントロールするひとつの方法でした。マリア・ミカエラのブリュッセル滞在は彼女たちがスティグマを押され、コントロールされるという現実への接触となりました。それに彼女は気づかれないではいられず、彼女は売春の女性たちの状況と共に、その時代の襟やその他の屈辱的なしるしの使用を告発したのでした。

[5] ADRATRICES(2006)Caminando.Plan General de Formacion.マドリッドーローマp10

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