レガシー ~故マリア・ルイサ 松本美津枝の被爆体験~
2017年1月に亡くなった礼拝会の姉妹マリア・ルイサ松本美津枝の遺品を整理していたときにみつけられた原稿を分かち合います。
人類史上最初の原子爆弾が広島の上空で炸裂してから45年、あの日の恐ろしい、苦難に満ちた思い出も被爆者である私でさえはるか彼方に置き去りにしてゆくような気がする。そうあってはならない、決して決して忘れてはならない。私は意を決してつたない被爆体験記を寄稿させていただくことにした。
何分にも、あれから45年たった現在、当時のメモもなく、そのうえ被爆後3年目には広島を離れて修道会に入会し、当時のニュースもほとんど入ってこない状態であったので、自分の記憶にのみ頼って綴る文に多少不正確な部分もあるかもしれないが、その点、何卒ご了承いただきたい。
(幟町教会付近・小冊子「知ってください!あの日のことを」より転載)
炎をくぐって
あの日、昭和20年8月6日、からりと晴れた青空は、前夜からの空襲警報が解除されたばかりの物騒なそれとは思えないほど美しく、真夏の太陽は遠慮容赦なく、もうとっくに朝の活動の始まっている軍都、広島の町をじりじりと焼いていた。
私はいつものようにモンペ姿に非常食を背負い、多聞院の住職の娘である友(現在、那須トラピスト修道女)と楽しく語らいながら比治山を背に、焼けつくようなアスファルトを踏んで、勤務先である文理大学へと道を急いでいた。ふと前方を見ると比治山橋のむこうから、家屋疎開の後片付けに行くらしい隣町の奉仕団の一行が、賑やかに笑いさざめきながらやってきて私たちとすれ違った。
「松本のお姉ちゃん」可憐な呼び声に振り向くと、列の中ほどにモンペ姿の母親の押す乳母車に乗り、笑顔でこちらに向かって手を振っているケイ子ちゃんのあどけない姿が見えた。ケイ子ちゃんの家族とは、つい10日程前まで同じ町内に住んでいたが、この度の家屋強制疎開で東と西に袂を分かったばかりなのである。私も手を振ってケイ子ちゃんに答え、そのまま道を急いだが、これがケイ子ちゃんとの最後の出会いとなったのである。約1時間後、彼女は黒こげになって即死し、母親も大火傷を負い段原小学校に収容されていたが苦しい息の下から、「どうしても良くなってケイ子の仇をとる」と叫び続けながら約1週間後、我が子の後を追った。ご主人は出征中であった。さぞ無念であったろう。生き延びて我が子の仇を取りたかったであろう。今でも思い出す度に胸が痛む。
(明治35年竣工したばかりの高等師範学校(後の文理科大学付属校)「追懐」より)
さて、私たちは定刻前に文理大の南門をくぐり、友は文理大本館の東洋史研究室に、私は高師理科二部(物理、化学)の準備室のある木造二階建校舎の二階の自分の職場へと階段を上った。この棟には教授連の研究室や授業の為の実験室、二階には階段教室があり、私たち助手補は通常、階段教室と隣り合わせの準備室にたむろしていて授業中の教授や、実験のための薬品を願いに来る学生達の用に応じることになっていた。この日はたしか、その年高師に入学した一年の授業が始まる日だったように覚えている。急いで準備室に入り、荷物を机の上に置くと白い実験着をはおりながら私より一足先に出勤していた同僚の池田さんに「おはよう」と声をかけた。ふと気が付くと彼女は日傘を手に外出の支度をしているではないか…。私はいぶかしく思い、その理由を尋ねると、彼女はこれから既に大学前の電停で待っている一学年を伴ってラジオの修理を頼まれた友人の家へ出かけるつもりだ。と答えた。私は驚いて「今日は授業のある日なのになんと言う事を」と今にも出て行きそうな彼女をしつこく止めて押し問答をしていた。
(昭和初期の広島市の地図。Sr松本が被爆されたのは爆心地から約1.3㎞ )
その時、パッと黄色い閃光が二人の間を走った。「おや、何だろう…」と思うひまもなく、地の底から湧き出たような轟音と激しい衝動を全身に感じ、私の体は周囲の色々な物体にぶつかりながら宙に浮いた。とっさに両手で頭を覆い目を閉じたが、硝酸のような異様な臭いが鋭く鼻をつき息苦しくなって来た。そうした中で私は、近くに相当大きな爆弾が落ち、その暴風で校舎が潰されたにちがいない、と考えていた。
つい、2,3か月前、この校舎のまん前に爆弾が落とされ、満州からの女子留学生が爆死し、少雨のしとしとと降る夕方、土の中から彼女の遺体が掘り出された痛ましい様子を、ありありと思いだしたからである。
どのくらい経ったであろうか。周囲の物体は気ままに乱舞したあげく、元の静けさにもどったようである。私は恐る恐るそっと目を開いてみた。妙なことに周囲は真っ暗である。体を動かそうとしたが重い木材が体の上に行く重にも重なり体中をしめつけて、身動きひとつできない。どうやら頭部を下に斜めに挟まれているらしく、木材を通して見える暗がりの中に、大学の本館が逆さにつっ立ている。校舎のいくつかの窓からは悪魔の舌のような炎が、ひゅうひゅうと間をおいては吹きだしている。その明かりに照らしだされて白い実験着姿の人々が血まみれになって入り口から吐き出されてくる様子がくっきりと浮かんで見える。一体何事が起きたのだろう。勿論、私には理解できなかった。
それにしても、つい先ほどまで一緒だった池田さんは?私のそばには見当たらない。
思わず私は大声で彼女の名を呼んだ。「池田さーん」返事がない。どこかへ吹き飛ばされたのかしら…。それとも、もしかしたら…。あせった。私は不吉な思いを打ち消そうと一層声を張り上げて叫んだ。「池田さーん。どこにいるの、返事をして」二度、三度…。やっと返事が返ってきた。「ここよ 大丈夫、生きているわよ」案外落ち着いた声である。しかし、声はすれども姿は見えないので私はなおも叫び続けた。「どこよ。どこにいるの」「ここ、ここにいるわよ。」彼女の叫び返す声は、なんと、私の真下から聞こえてくるではないか。彼女と私の間を先ほどまで二人が立っていた床板が遮っているのである。板の端から彼女の両手首から先だけがのぞいている。だんだんと、ぬぐうように明るくなってゆく空を睨みながら、私はどうにかして材木の虜から逃れようと身をもがいてみた。「痛い、痛いよ」真下にいる池田さんは私が動く度に床板に体をしめつけられるのであろう、大声でわめくのである。駄目だ、私は脱出を断念せざるを得なかった。しかし心の奥では誰かが助けに来てくるであろう…と期待していたようである。ふと、気が付くと、将棋倒しに倒れている木造建ての校舎が校門の方から燃えてきているのではないか…。ぞっと体中に鳥肌が立った早く誰か来てくれないと…そのとき、ミシッ、ミシッ、誰かが倒れた材木の土を歩いてこちらにやってくる。しめた!私は心の中で小躍りした。私は大声をあげて助けを求めた。近づいてきた。人の顔を見ると、理科二部の留学生Mさんである。「Mさん助けて―」私は大声をあげて助けを求めた。勿論、彼は助けに来てくれる、と確信して。Mさんは、材木の上から、ちらっと私を見た。そして冷ややかに言った。「そこまで行かれないよ。」彼は材木に指一本触れてみようともせず、なおも懇願する私を振り切っていってしまった。どんなにがっかりしたことか…。ご想像におまかせする。
やがて自分のすぐ後からも、ぽっ、ぽっと青い炎がふいているのを発見したとき、もう駄目だ、助からない、と覚悟した。「池田さん、どうしても出られないのよ。門の方から火が回ってくる。準備室からも火が出たわよ。一緒に死にましょうね。」私は思い切り手を延ばして友の手を握りしめた。温かい友情が指先を通して通い合った。
肉親や親しい人々の面影が走馬灯のように頭のなかを駆け巡る。Mさんを恨むまい。何となく静かに死んでゆけそうな気がした。友も黙っている。教授方や、学生たちはどうしたのだろう…パチパチ…火はもう5、6メートル先まで迫ってきて、その熱が体中に感じられた。「ああ…もう死ぬんだ」私は観念したが、どうも「死」に対する実感が伴わなかったような気がする。あの生と死を分けるギリギリの瞬間、案外冷静になれるものらしい。
どうしたはずみか、私は体を少しひねった。すると、今までどうしても抜けられなかった体が難なく材木の間から、するっと出たのである。「出られた!」脱出できたのである。死は私から遠ざかった!わたしの全身は喜びに震え、大声で友に呼びかけた。「池田さん、出られたのよ。今あなたも出してあげるわね」もう一刻の猶予もできなかった急いで友の両手をひっぱって上半身を材木の間から抜き出した。しかし、それ以上は私の力ではどうしても引っ張り出せない、火はもう3,4メートルの所まできている。「頑張るのよ、もう一息」力を入れて踏ん張る度に汗が全身からどっと吹きだす。」ああしかし、彼女の下半身は太い梁にでもはさまれているのであろうか、まるでセメントでかためられているかのように、びくとも動かない。髪をふり乱し、ほこりと汗にまみれた二人は、もう必死だった。「私を放っておいてあなただけ逃げて」友は叫ぶ。「何言っているのよ、頑張って!!あなたも力を出すのよ」体中のエネルギーが私の指先に集まった。満身の力を込めて友の両手を引っ張ったそのとき、友の体は、すぽっと抜けた。まるで奇跡でも起きたように…。炎はもう、目の前だった。助かったのだ!!助かったのだ!!嬉しい筈の二人の目からポロポロと涙が滝のように流れ出た。
グズグズしてはいられない。二人は手をつないでパチパチと炎をあげている材木の山からグランドに降り、あたりを見回したとき、「あっ」と息をのんだ。
大学のキャンバス内に無事なものは一つとしてなく、倒壊した校舎は火の海に包まれているではないか…。グランドの上に血まみれになって倒れている者、手のむけた皮をぶら下げて幽霊のようにふらふら歩いている者、衣服が焼けちぎれて裸同様な者、等々…。私はただ呆然と立ちすくんでいた。足の裏が熱くてたまらない。脱出の折、履物は失ってしまっていた。困っていると購買部の職員がかかえていた麻裏草履の中から一足をめぐんで下さった。(今でも感謝している)
「おお、無事だったか」という声に振り向くと村田教授が走り寄った。池田さんは早速自分の実験着を裂いて、教授の頭の傷をしばった。松浦教授もその助手の大塚さんも無事だった。(大塚さんは背中に火傷を負って一週間後に他界されたとか。)これで理科二部全員無事、と皆で喜び合った。
その後、池田さんは村田教授を伴って焼け残っていた吉島の学生寮に行き、そこで病床につき重態にまで陥ったが一命を取りとめ、幸せな家庭生活に入られたが、現在また重病にかかり入院中である。被爆した際、何と、彼女の肋骨は三本折れていたのである。ともかく、この後どうやって皆に別れをつげたかはよく覚えていない。心配していた多聞院の友(頭にガラスの破片で怪我をしていたが、軽傷)とも巡り合い、一緒に帰宅しようと付属小学校の門の方へ急いだ。振り向いて見ると、私たちの脱出した校舎は猛火に包まれ火の粉が勢よく天に上ってゆく。もし、脱出していなかったら…と感慨無量であった。付小の玄関までたどりついてみると、一人の同僚が首の付け根をガラスの破片で深くえぐられ、血と埃にまみれて息も絶え絶えに、たたきの上に転がっているではないか。校舎の中からも猛獣がほえているかと思われるようなうめき声が聞こえて来る。思わず耳をふさぎたくなるような痛ましい重傷者のうなり声である。血だらけの顔見知りの人々があちら、こちらであえいでいる。無傷の自分が何のなく申し訳なくなり、胸を締め付けられるような思いがした。
ともあれ、彼女を病院に運ばなければ、と抱き起しては見たものの、とても私たち二人の手には負えないことがわかり思案に暮れていると、折よくそこを通りかかった軽傷の一大学生が手を貸そう、と申し出てくれた。
日赤は大学の正門のまん前であるが、猛火に包まれているキャンパスを横切って、そちらの方向に行くことは絶対に無理である。仕方なく付小の門から出て逆もどりしよう、ということになり、私たち二人は負傷者を背負った大学生の両側につきそって門を出た。
一歩門外に出たとき、私は唖然とした。鷹野橋から比治山橋に通じている広い通りは両側から倒壊してきた家屋の材木や瓦礫でふさがり、そこかしこに燃え上がっている炎の中をボロ切れのように皮膚を垂らした人々や、血まみれの人々が泣き叫びながら逃げ迷っている。炎の中から髪をふり乱した女が飛び出してきて下敷きになった我が子を助けてくれ、と屈強な男を無理やりに母親の力で引っ張って行く。「アッ」と絶句しながら見送っていると、水の入っていない防火用水入れの中に真裸の少年が阿保のような顔をして坐っているのが目に入った、可哀想に、気が狂ってしまったのであろう…。さながら地獄絵巻を見ているようである。私たちは日赤行きを締めて、ひと先ず安全だと思われる比治山方面に避難することにした。
わが身ひとつでも、この様な混乱した状態の中をくぐってゆくのは非常に困難なことであるのに、ぐったりとして重くなっている女性を背負っている彼は、どんなにか大変であったろう。滝のような汗を流し、途中で何度もずり落ちそうになる背中の重荷を揺さぶり上げていた。私たちは、はらはらしながらも手の施しようがなく「しっかり」とか、「頑張って」とか声をかけるより他に道が無かった。ものの30分か40分も歩いたであろうか、やっと比治山橋を渡って橋のたもとの草原に彼女を下すことができた。
そこには、もうすでに多くの被爆者がひどい姿で横たわっていた。中には衣服も全部焼け落ち、水蜜桃の皮がむけたように皮膚を垂らした無残な姿もあって思わず目をそむけてしまった。川の中には水を求めて飛び込んだ人たちの死体が浮き、フワフワと流れに身を任せて漂っている様は、この世の後継とは思えないほどであった。この頃になると私の神経も大文麻痺してしまったらしく、どんなひどい有様の死体を見てもあまり感じなくなってしまっていた。私たちはしばらくそこに腰を下して休んでいたが、家族の事が心配になってきたので三人に別れを告げ、半ば走るように自宅への道を急いだ。このあたりは比治山にさえぎられていて被害も大分少なく、家は倒壊していても出火は免れていた。途中、兵器廟のあたりでB29の爆音を聞いたので拾った防空頭巾をかぶり、壕の中へ避難した。中で男の人が「どうも新型爆弾らしい」と話しているのを聞き、これから先、日本はどうなるのだろう…と、とても不安になった。
やっと家に辿りついてみると、家はちゃんと立っていた。戸口でうろうろしていた母と弟の無事な姿を見た途端、今まで張りつめていた思いが涙となってどっと吹きだした。
帰宅したのは私だけだった。父も二人の妹も、まだ帰っていない。不安な思いで家の中に入って座敷を見ると戸という戸は全部吹き飛ばされ、傾いた家の壁や屋根瓦が庭の井戸の上にずり落ちていた。座敷や縁側には無数のガラスの破片が散乱し、仏壇やタンス、机などの家具がめちゃめちゃに散らばっていた。床の間の大黒柱や壁には、ナイフのように鋭いガラスの破片がざっくりとつきささっていて、思わすぞっとした。ピカッと光った時、母は、座敷に、弟は庭で薪を割っていたとのことであるが、二人ともかすり傷ひとつ負わなかったのである。
私が家に着いたのは、たしか正午頃であったと思うが、それから2,3時間後、父と上の妹が前後して帰って来た。市外の工場へ父は動員学徒の引率で、妹で、妹の方はガラスの破片で頭に軽い傷をし、包帯を巻いていた。
やがて太陽が死の町の西に沈んでゆき、黄昏が迫ってきた。悪夢のような一日が暮れようとしているのだ。しかし…雑魚場町に疎開の後片付けの作業に行った女学院一年生の妹の姿がまだ見えない。近所の人たちは空襲を恐れて郊外のブドウ畑へと避難していったので、あたりはしんと静まり返り物音ひとつ聞こえない。戸口に立って彼方の空を眺めると黒い煙が暮れかかった空にまっすぐ登ってゆく。死体を焼いているのであろう。何と寂しい夜だろう…。
先ほど、たまりかねて作業の現場へ妹を探しに出かけた弟が曲がり角のところにたたずんで眼を拭いているのを目ざとく見つけた母が「登美枝はやっぱり見つからなかったのね。」といって涙ぐんだ。末っ子の甘えん坊のあの子は今、どこで、どうしているんだろう…。一人だけ家族から離れて、どんなに心細かろう…。皆、押し黙ったまま母の涙に和した。その夜、何回もB29の襲来にわずらわされながら、まんじりともせず人影の絶えた段原町でひたすら妹を待ったのである。ついに帰ってこなかった妹を待って…。
(広島銀行付近・小冊子「知ってください!あの日のことを」より転載)
妹を尋ねて死の町へ
何事もなかったかのように東の空がほのぼのと白み、廃墟の町、「広島」、にもいつものように朝が来た。手の下しようが無いこと、とわかっていても私たちが一家は一晩中、妹の安否を気遣って話し合った。そうして最後には皆の意見が悲観的になり、母の涙声で話が途切れる。うとうとしかけると、また誰かが話し始める、という具合で防空壕に入ったり出したりしながら、私共はまんじりともせず話し続けた。太陽の光が寝不足の目にしみて痛かった。
私は長女である自分に責任を感じ、父と二人で死の町へ妹を探しに出かけることにした。父と私は先ず、妹の作業場であった雑魚場へと向かった。比治山を超すと、目の前に展開しているパノラマは、まさに「死の町」であった。瓦礫と燃えさしの堆積は、どこまでも続き、ところどころに焼け残ったコンクリートの壁や、がらんどうのビルが立ち、焼け焦げた樹木が立ちすくんでいる。そこかしこに倒れている被爆者の多くは、もはや息絶えていたが、中には焼け爛れた手を差し延べて「水をください」「暑いからそこのトタンをかけてください」などと弱々しく嘆願する重傷者もいた。私と父はそうした人たちに時間をとられながら、死体をのりこえ重症者につまづきして、やっとの思いで雑魚場長に着いた。見ると長い広島一中のコンクリ―トの塀が爆風で倒され、その下に疎開の跡片づけに来た町内会の一団が列を作ったままで圧死していた。顔の見分けがつかぬほどに火傷を負って死んでいる人達にくらべて、この人達に混ざってモンペに姉さんかぶりの女性もいたが、若い母親の胸にしっかりと抱きついたまま息絶えている幼児のあどけない姿に思わず熱いものがこみ上げて来たのを思い出す。
私たちは妹と同年配と見える少女たちの顔をひとりひとり覗き込みながら探し回ったが、妹はそこにはいなかった。
そこで仕方なくみんなが逃げたと思われる宇品方面へ足を向け、傷心の道行きを続けることにした。途中、日赤にも立ち寄ってみたが、そこにも妹はいなかった。
途中、目にし、耳に聞いたことは到底紙面に述べることはできない。静まり返った死の町に聞こえるものはただ「お母さん」「水をください」「苦しいから殺してくれ!」という叫び声に交じって天にひびき、地に吸い込まれてゆくのみ…。その中を憔悴しきった様子で肉親や知人を訪ね歩く人々の影が力なく動いていた。焼野原にかげろうがゆれ、ときおり熱風が焼死者の腐乱した悪臭を運んで通り抜ける。死体には蠅が群がり、異様な羽音をたてながら吸い付いている。どうしてこの虫はしななかったのかした、と私はそれを眺めながら勝手に腹を立てていた。やがて地上にうつる影が長くなり夕闇が迫ってきて一日目は家族の期待を裏切ってむなしく暮れて行き、二日目も妹は見つからなかった。
三日目には多数の負傷者が運ばれて行ったという付近の島々を尋ねることにした。
宇品から乗ったポンポン船には私たちと同じように、これ等の島々にのみ希望をかけている家族の人々が満載された。収容所をもれなく尋ね、収容者名簿にくまなく眼を通し、それでも諦めきれず、今度は収容所ひとりひとりの顔を覗き込んで探したが、そこにも妹はいなかった。私たちは多くの知人の悲惨な姿に出会った。皆、自分の家族が探しに来てくれるのを待っていた。知らせてあげられないのがとても悲しかった。もう心当たりの場所はすべて探した。絶望。せめて死体だけでも見つかれば諦めがつくであろうに…と思ったが仕方がない。多分爆撃直後、多くの死体がかき集められて、どんどん荼毘に付された、ときいていたのでその中に入っていたのであろう。「諦めよう」父は悲痛な面持ちで、ぽつんと言った。二人はだまったまま船着き場へ急いだ。私たちの乗った帰りの船はロープではしけを引っぱっていたが、その上には次々と息を引き取っていった人々の遺体が「めざし」のように並べられ、それぞれの指先には住所、氏名を書いた紙片が細い針金で結び付けてあった。例の悪臭が漂い、それがどこまでもついてくるので私は数度嘔吐を催した。期待して帰りを待っている家族のことを思うと胸がつまった。足取りも重く、とぼとぼと歩いて家に着き、もう諦めるより他にない旨を告げると、母は、はらはらと涙をこぼした。そんな母を見ても慰める術もなく、ただ皆、泣くより他に何も出来なかった。
午後2時ころであったろうか、全く見ず知らずの中年の男性が自転車を押して尋ねてきた。私達がそこには女学院の生徒は一人もいなかったと聞いていてそれを信じ、立ち寄るのを止めた宇品の共済病院で妹に会った、と言う。半信半疑で夢からさめたような表情でいる私たちに彼は説明してくれた。妹はその人に両手を合わせ「おじさん、女子商前の松本宅に行って私がここにいる事を知らせてください。お願いします。」と涙ながらに頼んだのだそうである。彼はあまり詳しく話してくれず「大丈夫ですよ、早く行ってあげてください」と言うと、そそくさと立ち去っていった。
折よく焼け出された伯母一家が私宅に借寓していたので、加勢を求め、共済病院にかけつけた。妹は、黒い防空用のカーテンを胸から下にかけ、まだガラスの破片の散らばっている病院の床に、担架のまま置かれていた。最初に駆け付けた私は、変わり果てた妹の姿に、わっと泣きくずれようとしたとき、後から母に上着を強く引っ張られ、慌てて涙をのみ込んだ。妹は額とのどの柔らかい部分と背中に火傷をしていたが、他の学生のように顔が風船のように腫れ上がってはいなかった。妹の側に一緒に手をつないで逃げてきたという同級生の少女がやはり担架の上に横たわっていたが、私たちが妹を連れて帰ろうとしてきた「お姉さま、私も連れて行って」と目に涙をいっぱいためて懇願した。私は胸がいっぱいになった。できるものならそうしてあげたい、けれどあの場合、妹一人を連れて帰るのが精いっぱいで、とてもこの少女を連れてゆくのは無理であった。可哀想に、家族に引き取られて行く友がどんなに羨ましかったろう…。
最近東京から疎開してきたというこの少女の父親は戦地に、母親は働いているとのことであったが、今まで尋ねてこない所をみると、恐らく母親も重症か即死のいずれかであろう。私は「後で来てあげるからね」と心にもない嘘をつき後ろ髪を引かれる思いでそこを立ち去ったが、たぶん天国に行ったであろうあの少女に、心の中で「御免なさい」を繰り返し詫びている。
妹は担架に寝かせたまま、弟と従兄がかつぎ、母と私は両側につきそって日傘をさしかけ陽ざしを防いでやった。
約1時間後、やっと家に着いた。しかし連れて帰ったものの治療をしてくれる医者も近くにはいなかった。そこで比治山に電信隊があるのを思い出し、衛生班の兵士に頼んできてもらった。彼らは喜んで来てくれ、人懐っこい妹は家に帰り家族に会えた嬉しさのためであろうか、興奮してよくしゃべった。母が体にさわるので止めさせようとしたが、妹はますますしゃべり続けた。
妹の話によると原爆が落ちたのは、引率して行った教官が丁度防空壕の上に立って訓示をのべている最中であったとか。閃光が走ったとき、生徒たちは蜘蛛のこを散らしたように四方に散っていった。妹はかぶっていた経木のつば広の帽子がぱっと燃えて無くなってしまったので肝をつぶしたそうである。3,4人の友達と手をつないで群衆にまかれながら宇品方面へと逃げて行ったが、途中で電信柱が燃え上がっているのを見て、とても恐ろしかった。御幸橋付近で友人の一人がもう走れなくなったので「置いて行って」と橋の上にしゃがみこんでしまったので仕方なく、その友をそこに残し他の友達と一緒に共済病院に駆け込んだ、など立て続けに話してくれた病院で手当てを受けた妹は、最初のうちは割合に元気で重傷者たちに水を飲ませたり、食事を運んであげたりしていたのだそうであうが、やがて自分も気分が悪くなり寝込んでしまったとのこと。話し終えた妹は安心したのか、うとうとしていたが、時折「黒い布をどけて!」と叫んでは、もうとっくに外した防空幕を手で払いのけるしぐさをした。
妹の口の近くには焼けた缶詰工場から持って来たらしいみかんが2,3切れ置いてあったが妹はそれを食べようともしなかった。
黄色の液体を何度も嘔吐し、症状が悪化してゆくようであった。
その夜も敵の来襲があり、私たちは妹を担架に乗せたまま、防空壕に入ったり出たりして一夜を過ごさせなければならなかった。
私は昼間の疲れが出て壕の壁にもたれたまま、うとうとしていた。「起きなさい、様子がおかしいから」という母の叫び声にびっくりして飛び起き、妹の側に行くと、妹は家族の名をひとりひとり呼んで「さようなら」を繰り返していた。私が顔を覗き込むと「お姉ちゃんの顔を見た時、嬉しかったよ」と言ったので悲しみが込みあげてきて不覚にもはらはらと涙をこぼしてしまった。長い苦しい夜が明けた。警報も解除になったので暑い防空壕から妹を運び出し座敷にもどった。配給のおにぎりを砂をかむような思いで食べていると妹がトマトと牛乳がほしい、と言い出した。しかし、この焼野原のどこにそんな贅沢なものがあろう…。
父は五日市の農家へそれ等を求めにゆくことにして、暑い日差しの中を出かけて行った。妹の容態は思わしくなかった。
昨日の兵士が来て注射をし、妹を元気づけて帰っていった。
灼熱の太陽は真上にあった。また妹が家族の名を呼んでは「さようなら、さようなら」を繰り返し始めた。回復してほしいという家族の望みも空しく容態が急変したのである。
目がつりあがり、苦しい息遣いが今度は、しゃっくりのような症状に変わった。母は「もう助からない」と言って涙をこぼした。名前を呼んでも、もう反応は無かった。激しく繰り返されていた発作もだんだん間を置くようになり、やがて静かになった。口をちょっと開き、目じりには涙のしずくがたまっていた。あどけない少女らしい死に顔で苦痛の色はだんだん薄らいでいった。母は台所に立ってゆき、吸い飲みに水を汲んできて妹の唇の間にそそぎ込み、末期の水を飲ませた。そして「お兄ちゃんのところへ行きなさい。」といって(上の弟は0歳で他界している。)目を閉じてやった。皆、声も立てずに泣いていた。弟が遺髪を切り取り結んで保管した。
あたりは静まり返り蠅の羽音だけが妙に音高くひびき神経を苛立たせた。私は妹が火傷の上にとまった蠅を「痛いから追っ払って」と何度も頼んだことを思い出し、両手を上げて追った。兵士が来てすぐにこと切れている妹を見て「可哀想だったなあ!」と呟き、でも注射をしてくれた。
父はトマトと牛乳を手に入れて帰って来たが、妹が息を引き取ったことを聞くと、悄然と肩を落とし「間に合わなかったか」と行ったきり、ぺたんと玄関の板の間に腰を下ろした。父の顔を見た家族の者は悲しみが声となって体内からほとばしりでたかのように慟哭した。
やがて知らせにより電信隊の一分隊がやって来て日が沈まない中にと、妹を担架ごと包み、四人の兵士が肩に担ぎ上げた。他の兵士たちは戸口に一列に並び、分隊長の「敬礼!」の号令に、さっと手が上がるその中を父と弟につき添われた妹は比治山の両側に急造された仮火葬場に運ばれた。焼香も読経もない淋しい野辺送りであったが、私は戦争犠牲者にふさわしいものだと思った。
家族にも会えず、ひとり淋しく消えて行った者が数万もあるということを思えば、家まで運ばれて家族に見守られながら死んだ妹は幸せだと言わねばならない。現に伯母一家は妹が連れて来られると、同じ年の従姉妹の骨を恋の収容所から持ち帰ったばかりのところであったので、いたたまれなくなり、そそくさと焼け跡の防空壕へと帰って行ったのである。
私はしばらくして比治山に登り、廃墟となった町を背景に、勢いよく燃え上っている炎の妹に向かって手を合わせ、別れを告げた。夕陽が赤く、美しく悲しかった。
翌朝、父と弟は妹の骨をありあわせの木箱に拾って帰って来た。焼け過ぎたという妹の骨は父の胸に抱かれた箱のなかで静かに眠っているようであった。
終戦、敗戦を聞いてもなかなか信じられなかった。ただ呆然として、これから先、日本はどうなるのだろう…などと考えていた。実感が湧いたのはそれからしばらくしてからである。悔し涙がポロポロと流れた。しかし他方では何とも言いようのない心の安らぎを覚えた。戦争は終わった。これで、もう第三番目の原爆は日本には落ちないだろう。こんなひどいことは今後絶対にあってはならない。主よ、永遠の安息を原爆犠牲者に与えたまえ。
(1991年2月「戦争は人間のしわざです」に寄稿 松本美津枝)